村を移転させて農業用水をつなげた日野用水開削450周年記念特別展 12月3日まで~日野市立新選組のふるさと歴史館で

日野市内にはいまも多摩川、浅川、程久保川から水を取り込んでいる用水は、現役であり、その延長は約116㎞に及ぶ。その昔、多摩川の北側に住む人たちは「嫁に行くなら日野に行け」といったというほど、米作りが盛んな日野だった。嫁に出す娘が食いっぱぐれないと近隣の村人は見ていた。江戸時代の日野本郷の石高は約2300石。多摩地域では断トツの生産高だった。「米どころ日野」を生んだのは用水だった。戦国時代の永禄10(1567)年に開削されて以来、今年で450周年になるのを記念して、日野市郷土資料館は12月3日まで、同市立新選組のふるさと歴史館で、「日野用水開削450周年記念特別展」を開いている。日野人が守り育てた用水の歴史的変遷と用水を取り巻く自然と清流について紹介している。

安定的な水量で耕作面積拡大
 同郷土資料館によると、日野用水の開削は、後北条氏の開発政策によって永禄年間(1518~70)に美濃国出身の佐藤隼人が行った。この政策を推し進めるにあたり、日野本郷の旧地(古村跡)を移設し、新たな開発拠点として日野宿が立てられた。村を移動したことによって湧水地点や、それまでの小規模用水をつなげて、多摩川からの長距離の導水が叶ったという。安定的な水量を得たことで耕地面積が飛躍的に伸び、それまでの開発・退転・再開発を繰り返してきた不安定な農業が広域的な水田耕作ができるようになった。この開削によって、日野宿を含む現在の日野市域の北半分が出来上がり、その後の日野の発展に結びついたという。

鉄道敷設工事にも用水路確保
 米作りに欠かせない用水を守ったのは、村民の「御普請」によるところが多かった。日野領七ヶ村と昭島・立川方の拝島領九ヶ村との水争いもあった。甲武鉄道(中央線の前身)が八王子まで延伸した時も鉄路の築堤で用水を分断しないように通水路が守られた。戦後の急激な都市化によって工場廃水や家庭からの排水によって農業に影響を与えるほどに用水が汚濁したことで用水に通年にわたって通水され、下水道整備や同市の清流条例が施行され、清流が復活したことにも触れている。
 日野用水開削450周年記念展は、9時半~17時(入館は16時半まで)。月曜日休館。大人200円、小中学生50円。会場の日野市立新選組のふるさと歴史館へは中央線日野駅から徒歩15分、または日野駅-高幡不動間のバス、日野七小入口下車、徒歩5分。問い合わせは電話042-592-0981日野市郷土資料館。
 


昭和30年頃、日野駅西側に広がっていた「八丁たんぼ」=真野徹家所蔵。写真は、いずれも日野市郷土資料館提供


元禄16年「挨拶目録」佐藤信行家所蔵


村の移転などを記す資料を展示する会場